ソ連軍は1982年のベッカー高原の空戦で何を教訓として学んだのか

ソ連軍は1982年のベッカー高原の空戦で何を教訓として学んだのか

2020年7月29日

1984年、ランド研究所の研究員だったベンジャミン・ランベス(Benjamin S. Lanbeth)は、「1982年のレバノン航空戦争からソ連政府が得た教訓(Moscow's Lessons from the 1982 Lebanon Air War)」と題する報告書を発表しました。これは1982年にレバノンのベッカー高原(ベッカー渓谷)においてイスラエル空軍が遂行した航空作戦の成果を、ソ連がどのように分析していたのかを調査した成果です。

ランベスが注目したのは、ソ連の定期刊行物『月刊ソ連空軍』の1983年9/10月号に掲載された論稿です。これは一般大衆に向けたプロパガンダとして書かれたものではないため、ソ連軍の内部でどのように教訓が学ばれているのかを知る貴重な手がかりと位置付けられています。

1982年6月のベッカー高原でイスラエル空軍が得た戦果

1982年6月6日11時、イスラエル軍はレバノンに対する大規模な攻勢としてガリラヤの平和作戦(Operation Peace for Galilee)を発起しました。作戦の目的はイスラエルの国境地帯を繰り返し砲撃するパレスチナのゲリラ組織やシリア軍の部隊を後退させ、領土の安全を確保することにありました。地上を進撃する6万名の陸上部隊を上空から掩護するため、イスラエルは航空部隊を投入しています。

この動きに対してシリア軍はベッカー高原周辺に地対空ミサイルのSA-6SA-3SA-2を増強するだけでなく、上空に戦闘機部隊を指向し、対航空戦の構えを取りました。当時、イスラエル空軍は米国製の戦闘機であるF-15F-16を運用しており、それを迎え撃つシリア空軍はソ連製の戦闘機を運用していました。そのため、この時の空戦は米ソ双方が開発した戦闘機が実戦でどれほどの性能を発揮するかを評価する非常に貴重な機会になったのです。

ランベスが報告書で述べているように、この空戦でイスラエル空軍は目覚ましい戦果を上げました。それまでの常識では、航空部隊が地上の防空網を制圧することは非常に難しいと考えられていたのですが、イスラエルは空戦に早期警戒機E-2Cを投入することで、有利に電子戦を遂行することができました。その効果は絶大であり、シリア軍の防空システムでは各所で通信が途絶し、その火力を適切に運用できなくなっていたと述べられています。

6月9日の戦闘でシリア軍の地対空ミサイルの誘導システムは正常に機能しておらず、レーダーによる状況の認識も不可能になっていました。わずか10分でイスラエル空軍はベッカー高原に陣取ったシリア軍の高射隊の陣地19か所のうち10か所を撃破することに成功し、イスラエル軍の最終的な戦果報告では17か所の撃破に成功しています。

さらに同日に行われた大規模な空戦でシリア空軍は同時に60機のMiGを出撃させています。しかし、イスラエル空軍のF-15とF-16と交戦した結果、23機が撃墜される甚大な被害を受けました。米空軍の調査によれば、最終的にF-15が撃墜したシリア軍機は40機、F-16が撃墜したのは44機でした。イスラエル軍機の損害がほとんどないとされたことも注目されました。

また米空軍の調査で、シリア軍機の撃墜に使用された武器は空対空ミサイルの第3世代サイドワインダーAIM-9Lであり、機関砲による撃墜は全体の7%に過ぎなかったことが判明しました。このデータは当時の対航空戦が昔ながらの格闘戦(dogfight)と少し違った様相を呈していたことを示しており、かなり距離を置いた状態で交戦していたことが伺われます。このような観点から見ても、ベッカー高原の空戦は将来の航空作戦を考える上で非常に貴重な研究対象でした。

ベッカー高原の空戦がソ連軍の関係者に与えた衝撃

このベッカー高原の空戦の結果は世界各国の空軍の関係者から注目されました。

この空戦の後でイラク空軍とペルー空軍がソ連製の装備を使用することを見直す動きが生じ、ソ連の武器貿易に影響を及ぼしたことも、その影響の大きさを物語っています。米国はイスラエルに対する圧力を強めて、戦闘の記録を米国と共有するように要求し、自国製の戦闘機の性能を詳細に評価しようとしたため、これは外交的な問題になりました。

ソ連は直ちに敗北したシリア軍に新たな装備を提供することを申し出て、戦力の回復を支援しました。イスラエル空軍の損害に対して、シリア空軍の損害が甚大になった原因を調査する必要があったため、ソ連空軍の専門家を加えた調査団を現地に派遣しています。

ソ連空軍の専門誌『月刊ソ連空軍』の1983年9/10月号に掲載されたドゥブロフ(V. Dubrov)大佐の論稿は、その調査の結果を踏まえており、軍事専門的見地からこの問題を分析しています。ランベスはこの論稿を調べた上で、以下のような教訓が導き出されていたと述べています。

  • 「直接支援が可能な打撃部隊(strike formation)として制空戦闘機を運用する場合よりも、別々の飛行経路で空中哨戒させる場合の方が、より自由に機動することができる」
  • 「敵の戦闘機や地対空ミサイルの攻撃に対して航空偵察機に脆弱性がある」
  • 「通信とレーダーを妨害することが重要である」
  • 「長距離レーダーを備えた戦闘機を小型の空中警戒管制機として運用することが有用である」

ドゥブロフはソ連空軍首脳部に戦闘機部隊の戦術的運用に高度な柔軟性を持たせること、ヨーロッパ正面での西側に対する作戦でE-3Aを無力化すること、航空部隊の電子戦の能力を向上させること、ソ連軍の航空部隊も地上の管制に頼らずに空戦を遂行することなどを提案しています。

さらにランベスはドゥブロフの分析にどのような限界があったのかについても考察しています。例えば、ドゥブロフはイスラエル空軍の戦術能力の高さを見落としており、電子戦の能力を高く評価する一方で、F-15にも高性能なレーダーが搭載されていたことを評価できていません。また、イスラエル空軍が使ったAIM-9Lに対する認識も十分ではないとランベスは批判しています。

以上の判断を総合すると、ソ連は空戦について調査しているものの、その考察にはバイアスがあり、偏った教訓が導き出されていた可能性が大きいと指摘しています。

むすびにかえて

米ソ冷戦の歴史において1980年代の安全保障環境は非常に緊迫したものでした。1979年にソ連がアフガニスタンに侵攻したことで、ヨーロッパと東アジアの両面で緊張が高まっており、核戦力を含めた軍備の拡張が進んでいたのです。このような情勢で1982年のベッカー高原の空戦が発生し、西側の戦闘機の優位が実証されたことは、国際情勢にも影響を及ぼしたと考えられます。当時のソ連の政策決定者は米軍の航空部隊によってソ連軍の防空網が制圧され、航空優勢を奪われるリスクを覚悟しなければならなくなりました。このことは、ソ連軍の攻撃を抑止する西側にとって大きな優位になったはずです。

武内和人(Twitterアカウント