戦術が優れていても作戦と戦略に欠陥があれば、戦術は無意味である:『ドイツ軍の1918年の攻勢』の紹介

戦術が優れていても作戦と戦略に欠陥があれば、戦術は無意味である:『ドイツ軍の1918年の攻勢』の紹介

2020年9月28日

1918年、ヨーロッパの西部戦線で英仏両軍に対するドイツ軍の一連の攻勢作戦は失敗に終わりました。これはドイツ軍にとって致命的な失敗でした。というのも、この攻勢が失敗してから間もなくして来援した米軍が続々と西部戦線に部隊を展開させたため、ドイツ軍は劣勢に立たされることになり、その状況は1918年11月の停戦で戦闘が終結するまで変わらなかったためです。

元米陸軍軍人のデイヴィッド・ザベッキ(David T. Zabecki)は1918年の攻勢においてドイツ軍が戦術的には注目すべき戦果を上げていたことを指摘し、作戦と戦略の失敗によって、その戦果が台無しになったと説明しています。その説は『ドイツ軍の1918年の攻勢:戦争の作戦的レベルの事例研究(The German 1918 Offensives: A case study in the operational level of war)』(2006)でまとめられており、戦略および作戦術の研究において重要な成果になっています。

この記事では、その研究成果の要点を紹介してみたいと思います。文献の情報は以下の通りです。

ザベッキの研究では、戦術と戦略を繋ぐ作戦に焦点を当てています。戦術は戦闘(battle)に勝利することを目指しますが、戦略においては戦争(war)で勝利を収めることを目指します。作戦は、戦術の成功を戦略の成功へ結びつける中間的な役割を果たすものであり、基本的に戦役(campaign)において勝利することを目指しています。

近代的な意味で作戦という観念を発達させたのはプロイセンのヘルムート・フォン・モルトケの功績でした。彼は戦闘、戦役、戦争にはそれぞれ異なる性格があると考えた上で、戦争の重要な目的の多くは戦闘によらずとも達成することが可能であると述べました。モルトケは戦争目的の大部分が「行進や陣地の選択、要するに作戦によって」達成することが可能であると考えていたのです(p. 24)。モルトケが考える戦略的成功は必ずしも戦闘において決定的な勝利を収めることに依存していなかったのです。

第一次世界大戦でドイツ軍の作戦を指導した第一兵站総監(参謀次長)のエーリヒ・ルーデンドルフは優れた「戦術家」でした。しかし、彼には決戦を追求する姿勢が強すぎる傾向も見られました。ザベッキは「ルーデンドルフの下でのドイツ軍は、戦術が作戦の考慮より優先されていたばかりか、戦略よりも優先されていた。ルーデンドルフ自身が戦術に集中していたために、西部戦線における作戦のレベルが無視された」と述べています(p. 28)。このような姿勢がはっきりと現れているのが1918年のドイツ軍の一連の攻勢作戦であり、当時のルーデンドルフが作戦の指導をどのように誤ったのかが説明されています。

1918年7月の西部戦線の戦況。3月から開始されたドイツ軍(赤)の一連の攻勢によって、英軍(青・BEFで表示)とフランス軍(青)は多くの陣地を失い、一時は両軍が分断される事態も懸念されたが、両軍の指揮を一元化し、米軍の来援を受け、防御線を再構成した。5月にドイツ軍は攻撃の主軸をフランス軍に移したが、マルヌの戦闘でフランス軍によって撃退された。ザベッキはドイツ軍の敗因は戦略、作戦の欠陥にあり、特にソンム県のアミアン(Amiens)の重要性を見誤ったことが致命的だったと主張している。

この著作の見所は第5章から第11章にかけて展開されているドイツ軍の作戦の分析です。戦略と作戦の観点から見て特に興味深いのは5章「作戦の決心:1917年11月11日~1918年1月21日」であり、ここでザベッキは1918年3月以降に参謀本部でどのような議論が交わされていたのかを記述しています。

1917年11月以降の作戦会議の席上でルーデンドルフは東部戦線とイタリア戦線から抽出した約35個師団を使い、米軍が来援する前に可能な限り早く西部戦線で攻勢をとるべきであることを主張し、しかも英軍を戦争から追い出さなければならないという方針を打ち出していました(p. 99)。この立場によれば、西部戦線の北部を担当する英軍がフランス軍よりも重要な攻撃目標だと見なされていたことになります。

西部戦線で英軍の兵力がフランス軍に比べて相対的に小規模だったこと、また英軍とフランス軍が隣接する地点が戦略的な弱点になっていたことを踏まえれば、ルーデンドルフの作戦構想に一定の合理性があったと認められます。ただし、ルーデンドルフがこの英軍に対する攻勢作戦を「殲滅戦(Vernichtungsschlacht)」として構想したことは、決定的な間違いであったとザベッキは論じています(p. 112)。その説によれば、ルーデンドルフは英軍の兵力を決戦によって撃滅しようとするあまり、英軍の後方地域、特にアミアンを通る作戦線が非常に脆弱な状態にあったことを見過ごしていました(Ibid.)。ルーデンドルフは1918年3月10日に最初の攻勢のための作戦命令を下達しましたが、作戦の基本的な目的はソンムの北部にいる英軍の撃滅として規定されていました(p. 121)。

当時、ドイツ軍の誰もが英軍の弱点を見過ごしていたわけではありません。第一八軍の司令官だったオスカー・フォン・ユティエは作戦が開始される6日前に第一八軍に与えた任務を再検討するように参謀本部に意見を具申していました。ユティエは前線の敵を撃滅するだけでは決定的な戦果を上げることが難しいと考え、敵の後方地域へより深く進軍する必要があると主張しました(p. 123)。この提案は軍集団を通じて参謀本部に届けられましたが、ルーデンドルフは作戦計画に修正を加えるような処置はとりませんでした(Ibid.)。

ドイツ軍が西部戦線で攻勢を発起する前日の3月20日、ルーデンドルフは敵部隊を全前線で撃滅できた後でなければ、縦深にわたって突破するような機動は実行不可能であるという考えを示しており、敵軍を縦深にわたって突破することができるとしても、それは殲滅戦が成功した後の段階のことだと見なしていました(p. 124)。ルーデンドルフが個別の戦場における戦闘力の集中を重視する反面、戦域の全体を視野に入れた部隊の機動運用を軽視していたことが分かります。

エーリヒ・フリードリヒ・ヴィルヘルム・ルーデンドルフ(Erich Friedrich Wilhelm Ludendorff, 1865年4月9日 - 1937年12月20日)1914年のタンネンベルクの戦闘で勝利に大きく貢献したことが評価された。1916年に第一兵站総監に就任してドイツの戦争を指導した。

1918年3月21日、ドイツ軍が攻勢を開始した当初、英仏両軍は多くの陣地を手放し、退却することを余儀なくされていました。しかし、この攻勢は4月に入ると限界に達して勢いがなくなり始めました。ザベッキが致命的な決定だったと見なしているのは、5月27日に開始されたブリュッヘル作戦であり、これは攻撃目標を英軍からフランス軍へと大胆に転換した作戦でした。ザベッキはこれを「間違った場所における間違った攻撃」だったと評しています(p. 231)。

ルーデンドルフは英軍に対する攻撃を再開するか、少なくともアラスで英軍とフランス軍を分断するように攻撃すべきでした(Ibid.)。ザベッキの分析によれば、ルーデンドルフが個別の戦場で勝利を収めることを考えるあまり、戦域の状況を見誤っていたと考えられます。フランス軍がマルヌ川でドイツ軍の攻撃前進を頓挫させ、7月20日にドイツ軍は作戦を中止しました。ザベッキは1918年のドイツ軍の攻勢は適切に立案されていれば、英軍とフランス軍を分断することは不可能ではなく、おそらく英軍をヨーロッパ大陸から締め出すことができたはずだと論じています(p. 312)。

しかし、ルーデンドルフの作戦が成功したとしても、ドイツが敗戦国になることは避けられなかったはずだともザベッキは述べています。そもそも、ルーデンドルフの攻勢作戦は、ヨーロッパ大陸から英軍を追い出せば、フランスを降伏に追い込み、英国もドイツと講和することを前提にしていました。しかし、英国の艦隊によって厳しい海上封鎖を受けていたドイツ経済は極度に疲弊しており、ドイツ海軍は海上優勢を獲得できるだけの海上兵力を保有していません(Ibid.)。フランスを屈服させれば、英国が講和に応じるというルーデンドルフの戦略の前提には根拠が乏しいものでした。

つまるところ、ルーデンドルフの攻勢は、戦術の成功を戦略の成功に結び付ける作戦に対する考慮が欠落していました。ルーデンドルフの敗因は攻勢を開始した後で攻撃目標を不適切に変更しただけでは説明できません。彼は作戦を立案する段階で敵の作戦線を迅速に遮断するチャンスを捨て、戦闘によって敵軍を殲滅することを優先したことで、時間と兵力を浪費していました。また、戦術的な成功を収めたとしても、それを戦略的な成功へ転換する枠組みは確立されておらず、フランスを降伏させても英国が戦争から離脱する保証はどこにもありませんでした。

むすびにかえて

ザベッキはルーデンドルフの作戦を批判していますが、その根底にあったのはドイツ軍の制度的、組織的、構造的な問題だったことも述べています。例えば、1918年の攻勢の失敗は、1944年のバルジの戦闘で見られた作戦の失敗と多くの類似点があります。1944年12月に開始された攻勢で、ドイツ軍は英米軍との戦闘で戦術的な勝利を収めましたが、12月末には勢いを失い、1945年1月には退却を余儀なくされています(p. 325)。この事例は1918年の事例と比較することが可能であり、1918年の失敗が再現されていると解釈することができるとザベッキは主張しています(Ibid.)。

「ルーデンドルフに関する私の最終的な評価としては、彼は多くの面で20世紀前半におけるドイツ軍の全体像を体現していたと結論付けなければならない。つまり、戦術は有能だが、作戦に欠陥があり、戦略は破綻していたのである」(p. 328)

武内和人(Twitterアカウント