現代軍事学で見れば、孫子の兵法にも問題はある

現代軍事学で見れば、孫子の兵法にも問題はある

2020年3月1日投稿

はじめに

古代中国の兵書『孫子』は今でも軍事学の古典として世界的に高い評価を受けており、日本でも広く読まれています。事実、『孫子』の戦略思想は今日においても有効な部分が少なくなく、現代の研究者にさまざまな知的刺激を与えています。

しかし、それでも今日まで軍事学が積み重ねてきた研究成果と照らし合わせるならば、時の試練に耐えきれない部分はあり、その内容を無批判に受け入れるべきではありません。研究は絶え間なく進んでいるのです。

最近の軍事学の研究成果を踏まえた場合に、『孫子』が抱える問題の一部を紹介するため、今回の記事では『孫子』の計篇冒頭で議論される「五事七計」に注目してみましょう。

五事七計とは何か

『孫子』において「五事七計」とは、戦略的観点に基づき、我が国と敵国との軍事的な優劣を判断する場合に考慮すべき事項をまとめたものです。『孫子』で最初に取り上げられるため、非常に有名な箇所であり、五事は道、天、地、将、法の5要素から構成されています。

それぞれの項目の説明としては、以下の通りです。

「第一の道とは、民衆と君主の気持ちを一つにさせるものである。それがあれば、民衆は君主と生死を共にし、危険も恐れなくなる。第二の天とは、天気の明暗、気候の寒暑、そして時機の変化を利用することである。第三の地とは、彼我の距離、地形の険しさ、戦線の広さ、そして戦闘を遂行する上での有利不利のことである。第四の将とは、知性、信頼、仁愛、勇気、威厳のことである。第五の法とは、編制、職制、軍需、軍費のことである」

五事をよく理解するだけでは十分ではありません。『孫子』では、次の七つの問いに答えることも併せて論じられています。

「それゆえ、これら五つの事項を比較すれば、実情が分かってくる。すなわち、我が国の君主と敵国の君主のどちらに大義があるのか。我が国の将軍と敵国の将軍のどちらがより有能なのか。我が国と敵国のどちらが天地の恩恵を受けることができるのか。我が国と敵国でどちらの法令がよく遵守されているのだろうか。我が国と敵国で兵力が優勢なのはどちらなのだろうか。我が国と敵国の兵士のどちらがよく訓練されているのか。我が国と敵国のどちらの賞罰が公平なのか。これらの結果を総合すれば、戦う前に我が国と敵国の勝敗を知ることができる」

以上の七つの問いが七計であり、先ほどの五事と合わせて五事七計と呼ばれています。それでは、現代の軍事学を踏まえれば、五事七計に対してどのようなことが言えるのでしょうか。

戦略家が考慮すべき17の次元がある

イギリスの研究者コリン・グレイは『現代の戦略』(1999)において、『孫子』が提示した五事七計よりもはるかに大きな枠組みを構築しています。グレイの用語に従うならば、グレイは戦略にはさまざまな「次元(dimension)」があると論じており、それらは(1)人間と政治、(2)戦争準備、(3)戦争の本性という大分類に沿って区分できます。さらに、その大分類の下位に位置づけられる小分類として、以下の17項目を挙げています。

人間と政治

  • 人間 組織を構成する人々が有する人格、才能、能力、精神状態について。

  • 社会 集団の中の社会的な相互作用、特に国民世論の衝動性について。

  • 文化 戦略の決定に影響を及ぼす思考の前提となる伝統、価値観、態度、歴史観。

  • 政治 戦争によって達成しようとしている政治的目的、あるいは戦争を手段として運用する政策について。

  • 倫理 軍事的意思決定に付随する倫理的な妥当性、正当化のための論理について。

戦争準備

  • 経済と兵站 平時と戦時の両方における資源の効率的な利用、開発について。

  • 組織 戦争の遂行に関連する組織、特に官僚制の機能と構造について。

  • 軍事行政 軍隊に必要な人員、武器、装備を提供する行政活動について。

  • 情報 相手の意図や能力を知るための情報資料を収集、分析、評価する能力について。

  • 戦略理論とドクトリン 軍隊において設定された目標とそれを達成する方法を組織として定めた統一的な運用思想について。

  • 技術 軍隊が運用する装備とそれに関連する技術について。

戦争の本性

  • 軍事作戦 戦地において軍隊が発揮する戦闘力とそれに依拠した戦闘行動について。

  • 指揮 軍隊を運用する指揮官の指揮、統制、統率について。

  • 地理 戦域として含まれる地域の自然環境だけでなく、時代の変化に伴う空間利用の変化について。

  • 摩擦、偶然、不確実性 戦争における予測不可能な事故や出来事について。

  • 敵 敵対関係にある勢力の存在について。防衛計画や作戦計画における脅威認識も含まれる。

  • 時間 軍事行動を規定する時間的なサイクル、制約について。

『孫子』の五事七計で扱われることがなかった要素も盛り込まれていることが分かると思います。例えば、グレイの議論で文化が重要な位置を占めているのは注目すべき点であり、冷戦期に入って軍事学でも戦略と文化の関係(戦略文化)が分析の対象になったことを反映しています。『孫子』では道の項目において政治に言及しており、また戦争目的の正当性という意味で倫理や人間についても考慮していましたが、文化や社会が戦略に与える影響については論じていません。これは『孫子』が書かれた当時の中国では、文化的に異質な民族との戦争よりも、文化的に同質な民族との戦争の方が深刻だったためかもしれません。

むすびにかえて

五事七計は軍事学史において最初期に位置づけられる研究成果でありながら、視野の広さと戦争に対する深い理解が示唆されており、大変興味深い内容です。しかし、現代の軍事学の立場から見れば、その議論に若干の偏りがあることを読者は知った上で研究すべきであり、グレイの研究で区分された「戦争準備」と「戦争の本性」の要素に対して、「人間と政治」の要素への考察がやや手薄になっている印象を受けます。

『孫子』が異民族との戦争を想定していないとしても、成立当時(紀元前5世紀前後)の東アジア情勢を踏まえれば、それは大した問題にならなかったはずです。というのも、中国に対して北方から遊牧民の匈奴(オルドス)などが軍事的活動を活発にして、脅威を及ぼしてくるのは紀元前3世紀に入ってからのことだからです。北方からの脅威に本格的に対応し始めるのは、秦によって中国が統一されてからのことです。

武内和人(Twitterアカウントnoteアカウント