第一次世界大戦のドイツ軍における突撃歩兵のドクトリン研究開発史を論じた『突撃歩兵戦術』を紹介する

第一次世界大戦のドイツ軍における突撃歩兵のドクトリン研究開発史を論じた『突撃歩兵戦術』を紹介する

2020年9月17日

第一次世界大戦(1914~1918)は陸軍の近代史において歩兵戦術が抜本的に見直された戦争でした。大規模化した塹壕、部隊の前進を妨げる鉄条網、そして機関銃による弾幕、これらの要因が組み合わさった結果、それまでの方法では歩兵が攻撃前進することが不可能となり、戦局は膠着しました。この事態を打開するため、各国の陸軍はそれぞれ試行錯誤を重ねましたが、その中でもドイツ軍は歩兵の戦術的運用を大胆に見直しており、1918年3月の西部戦線における攻勢ではその成果が活用されました。

当時、この攻勢の立役者として第18軍司令官オスカー・フォン・ユティエが注目されていましたが、やがてドイツ軍の歩兵戦術の修正を可能にしたのはユティエのような上級将校ではなく、第一線で試行錯誤を重ねた下級将校の功績だったことが明らかにされました。今回は、この分野で高い評価を受けている著作『突撃歩兵戦術(Stormtroop Tactics)』(1989)を取り上げて、その研究の意義について解説してみたいと思います。著者のグッドマンズソンは元米海兵隊員であり、最終階級は少佐です。

ドクトリン開発で注目されたドイツ軍の突撃歩兵

『突撃歩兵戦術』が書かれた目的は、1918年3月に西部戦線でドイツ軍が大規模に導入した突撃歩兵の戦術が発展してきた経過を明らかにすることでした。しかし、ドイツ軍の戦術に関する先駆的な研究としては、イギリス陸軍のグレアム・チャムリー・ウィン(Graeme Chamley Wynne)大佐の著作『もしドイツが攻撃すれば:西部戦線における縦深戦闘(If Germany Attacks: The Battle in Depth in the West)』(1940年)がすでにありました。この著作ではドイツ軍が1915年から1917年までのイギリス軍との戦闘を通じて弾力的な縦深防御のドクトリンを発達させた過程が記述されています。

そこではドイツ軍の防御戦闘のドクトリンが軍参謀長だったフリッツ・フォン・ロスベルク(Fritz von Loßberg)によって開発されたものであることが説明されており、ロスベルクが書き残した史料に基づいて研究が行われています(ちなみに、ウィンが参照したロスベルクの史料は『ロスベルクの戦争:ドイツ軍参謀長の第一次世界大戦回顧録(Lossberg's War: The World War I Memoirs of a German Chief of Staff)』として2017年に出版されています)。ただし、ウィンの研究はロスベルクが開発した弾力的縦深防御を対象にしていたので、攻撃戦闘に関するドクトリンの研究開発の歴史は未解明のまま残されていました。

1980年代に入ると、アメリカでは第一次世界大戦におけるドイツ軍のドクトリン開発に焦点を合わせた研究が報告されました。米陸軍士官学校で軍事史の研究に従事していたティモシー・ルーファー(Timothy T. Lupfer)は『ドクトリンのダイナミクス:第一次世界大戦におけるドイツ軍の戦術ドクトリンの変革(The Dynamics of Doctrine: The Change in German Tactical Doctrine during the First World War)』(1981)の中で、ロスベルクがトップダウンで考案した弾力的縦深防御とは対照的に、突撃歩兵の戦術的ドクトリンはボトムアップで開発されていたことを指摘し、特にルーファーは突撃歩兵を育成したドイツ陸軍のヴィリー・ローア(Willy Rohr)大尉の手腕を高く評価しました。

グッドマンズソンが語る突撃歩兵のドクトリン開発史

グッドマンズソンの著作『突撃歩兵戦術』はこのような研究背景の下で書かれたものであり、単に第一次世界大戦の歩兵戦術を解明するだけでなく、ドイツ軍がどのようにして戦術的ドクトリンを研究開発していたのかを明らかにするための研究でもありました。グッドマンズソンは当時の部隊史、回顧録、教範類などを使用することによって、突撃歩兵の研究開発の全体像を描き出そうとしています。

そもそも、戦争が始まった1914年の時点でドイツ軍の歩兵は1888年に採用された教練で訓練されていました。それぞれの兵は小銃手としての技能を磨き、戦闘でも部隊として火力を最大限に発揮するように横隊に展開し、士官の統制に従って敵部隊に射撃することが戦術行動の基礎とされていました(p. 9)。現代の歩兵戦術の観点から見れば形式的に見えますが、20世紀の初頭まではまだこのような歩兵の運用が常識的だったのです。

このような戦い方は第一次世界大戦になってから、まったくと言ってよいほど通用しなくなりました。1914年10月19日に始まった第一次イーペルの戦闘ではドイツ軍の攻撃前進がイギリス軍の猛烈な火力で食い止められましたが、この時点でドイツ軍の内部では歩兵戦術に深刻な問題があることが認識されていたようです(pp. 11-12)。強力な防御を破砕するための方法として考えられたのは、砲兵の圧倒的な火力で敵を制圧し、その間に歩兵を前進させることでしたが、当時のドイツは大量の火砲や砲弾を調達することが難しい経済的状況にあり、歩兵を主体に攻撃を成功させる戦術上の必要に迫られました。

ドイツ軍が本格的に新しい歩兵戦術の研究開発に乗り出したのは1915年3月のことでした。敵防御線に突破口を作るための歩兵の戦法を開発するため、第8軍に特別な大隊が新設されたのです。当初、この新大隊の指揮をとったカルソー(Calsow)少佐は、敵の防御陣地、特に機関銃陣地を無力化するために37mmの火砲を運用することを実験しましたが、よい成果を出すことができませんでした(p. 46)。戦場では火砲を移動させることが難しいだけだけでなく、敵の砲兵からの射撃に対して対してあまりにも無防備でした(Ibid.)。カルソー少佐の実験は失敗に終わりましたが、1915年10月に大隊長として着任したローア大尉が新しい実験を開始しました。

ローアは、鈍重な火砲に頼るという発想を改め、歩兵の装備、編制、行動を一から見直し、敵の陣地を歩兵で攻略する戦法を考えました。そして、歩兵は隊形を保持して、小銃の射程圏で敵と交戦するよりも、分隊ごとに分かれて、それぞれが独自の判断で交戦した方がはるかに効率的に交戦できることをローアは認識しました。さらに、分隊員は銃だけでなく、手榴弾、火炎放射器などの装備を操作し、素早く敵の塹壕に突撃して陣地を奪取することができることにも気が付きました。この際に、それぞれの分隊は隣接する他の分隊と接触を保つことはしません。大隊、中隊、小隊の戦闘を、分隊ごとの交戦に分解することによって、ローアは問題解決の手がかりを掴みました。

ただし、下士官や兵は士官の命令を受けずに行動しなければなりません。それだけの技能を習得するためには、膨大な訓練をこなさなければなりませんが、ローアは敵陣地や戦場の地形を再現した戦闘訓練場を設置し、実弾を用いた戦闘訓練を何度も繰り返すことで、この戦術が実行可能であることを確認しました(p. 50)。砲兵の射撃は最小限に抑制されました。砲兵の準備射撃は行われましたが、これは敵陣地を破壊するためではなく、突撃の準備位置につくまで味方の突撃歩兵を掩護することが主な目的であり、砲撃は短時間で集中的に実施されました(p. 52)。味方の歩兵が突撃を発起すると、味方の砲兵は戦場の周囲を取り囲むように砲撃しましたが、これは敵陣地に来援しようとする敵歩兵の前進を阻止するためであり、あくまでも戦術行動の主体は歩兵でした(Ibid.)。

グッドマンズソンは突撃歩兵がローアの実験を通じて開発された後も、その効果を検証するために、何度も実戦で試されたことを論述しています。西部戦線、東部戦線、そしてイタリア戦線でローアの突撃歩兵は着実に実績を積み重ねていきました。その過程で、突撃歩兵の戦術は、ユティエが実践した浸透戦術、そして毒ガスを使った砲兵の化学攻撃と組み合わせることで、作戦の見地から見て大きな戦果を上げることが可能だと判明しました。1917年9月のリガ攻勢でもローアが開発した突撃歩兵の戦術が応用されていましたが、驚異的な速さでリガを攻略することに成功しています。「リガの戦闘は、戦術的なレベルよりも、作戦的なレベルで後のドイツ軍の攻勢のモデルとして位置づけられるものだった。リガの戦闘は奇襲を実現し、敵陣地の弱点に優勢な兵力を集中し、敵部隊の一部を完全に包囲すべくその弱点を縦深にわたって突破することの意義を実証した」とグッドマンズソンは述べています(p. 121)。

突撃歩兵は敵防御線に突破口を開く方法を編み出すために研究開発されたはずでしたが、それを応用すれば膠着した戦局を動かせるだけの効果があると考えられるようになり、ドイツ軍の首脳部はこの歩兵戦術にますます大きな期待をかけるようになりました。そのため、1917年から1918年の冬にかけて、ドイツ軍は西部戦線で攻勢作戦の準備として、突撃歩兵の戦闘訓練を集中的に実施しました(p. 145)。グッドマンズソンは、当時のドイツ軍の一部の砲兵さえも突撃歩兵としての訓練を受けていたことを紹介しており、もし兵力が不足した際には直ちに別の部隊から人員を確保しようとしていたことを指摘しています(p. 147)。1918年3月21日に西部戦線で開始された攻勢作戦は、ドイツ軍にとっては総力を挙げた攻勢作戦でした。

しかし、この作戦でドイツ軍の攻撃前進はイギリス軍の防御に阻まれました。期待されていた戦果を出すことができなかったのです。グッドマンズソンは突撃歩兵は戦術としてはすでに完成されていたという立場をとっています。したがって、その失敗の原因は戦術的なものではなく、作戦、あるいは兵站にあったのではないかと考えています。例えば、グッドマンズソンは突撃歩兵は個別に交戦するため、兵士が高い士気を維持しなければなりませんでしたが、当時のドイツ軍では長引く戦争で後方支援の能力が低下し、第一線の兵士に十分な糧食を配ることができていなかったことを指摘しています(p. 167)。しかも、突撃歩兵は徹底的な予行演習の反復と砲兵の準備射撃、阻止射撃を必要としてましたが、作戦上の必要から砲兵が支援できる距離を超えて攻撃前進を急いでいたことも指摘されています(Ibid.)。詳細に分析すれば、当時のドイツ軍が作戦上の要求を優先するあまり、突撃歩兵の戦術行動を可能にしていた前提条件を軽視せざるを得なかったと考えられます。

むすびにかえて

グッドマンズソンの研究はドイツ軍が総力を挙げて組織的学習に取り組み、攻撃戦闘のための新しいドクトリンを模索していたことを解明しました。ローアの個人的な手腕が優れていただけではありません。実験ではなく、実戦で突撃歩兵の効率性を検証したこと、それを別の分野の革新と結び付けることで、さらに効果の向上を目指すなどは注目すべき取り組みでした。突撃歩兵の効果が戦争の最終局面で限界に達したことも含めて、グッドマンズソンの研究成果は多くの教訓を与えてくれます。

その後、いくつか後続の研究が発表されているので、それらも簡単に紹介しておきます。グッドマンズソンの研究はドイツ軍の歩兵戦術を分析した労作でしたが、彼の視野はドイツ軍に限定されており、他国の歩兵戦術との比較検討はできていませんでした。サミュエルズ(Martin Samuels)は『ドクトリンとドグマ:第一次世界大戦におけるドイツとイギリスの歩兵戦術(Doctrine and Dogma: German and British Infantry Tactics in the First World War)』(1992)でドイツ軍とイギリス軍の歩兵戦術を比較し、グッドマンズソンが残した課題に対応しました。その後、イギリス軍の歩兵戦術に対する理解も深まったことを受けて、グリフィス(Paddy Griffith)は『西部戦線の戦術:イギリス陸軍の攻撃法1916-1918(Battle Tactics of the Western Front: The British Army's Art of Attack 1916-1918)』(1994)を書いており、イギリス軍の歩兵戦術の研究開発を再評価しています。

武内和人(Twitterアカウント