ヴォーバン

ヴォーバン

セバスティアン・ル・プレストル・ド・ヴォーバン(Sebastien le Prestre de Vauban 1633年5月4日 - 1707年3月30日)はフランスの陸軍軍人、技術士官であり、軍事学の領域においては特に築城学に関する研究業績によって知られている。

経歴

サン・レジェ・フォーシェレの出身。下級貴族の家に生まれたが、10歳で家を失って孤児になった。修道会に保護され、そこで基礎的な教育を受けたが、1651年にフランス国王に対してフロンドの乱が起きた際に、コンデ公が率いる反乱軍に士官候補生として入隊した。反乱軍が1653年に鎮圧された際にヴォーバンは捕虜になったが、フランス陸軍に加わった。そこで技術将校だったシュヴァリエ・ド・クレルヴィル(Louis Nicolas de Clerville)にその才能を見出され、1655年に王室侍従技術官に任命された。間もなくマレシャル・ド・ラ・フェルテ連隊に配属され、クレルヴィルの下で要塞の修復や強化に携わるようになった。1667年にルイ十四世がフランドルに向けて侵攻した際に、ヴォーバンは難攻不落とされたオランダの要塞を考案する方法を編み出し、陸軍大臣フランソワ=ミシェル・ル・テリエ(François-Michel le Tellier)の目に留まった。ル・テリエによってヴォーバンは総監に取り立てられ、さまざまな要塞関連の事業を任されるようになった。

ネーデルラント継承戦争(1667年 - 1668年)、オランダ侵略戦争(1672年 - 1678年)で数多くの要塞を攻略しただけでなく、フランスの国境地帯を防衛する目的で要塞の建設を指揮した。そのため、ヴォーバンはほとんどパリやヴェルサイユに滞在することはなかった。国王から与えられた自分の領地を訪れることも、家族との時間を過ごすこともほとんどできないまま、戦地を転々することが多かった。しかし、ル・テリエと緊密に連絡を取り合い、国防を含めたフランスの国家的事業に関するさまざまな問題について具体的な政策を提案した。その中には歩兵の装備改革の提案もあり、槍兵を廃止して、銃兵に銃剣を持たせることを提案した。要塞の事業に携わる中で、地図と統計の整備の重要性を主張したことでも知られている。

1678年にヴォーバンは有名な覚書の中でイギリス海峡からミューズ川に至る北東部の国境地帯を防衛するための要塞を建設することを提案した。これは敵軍が接近する際に使用する経路を閉鎖するだけでなく、敵国に対する攻勢で基地として機能することを目指したものだった。つまり、攻勢、防勢のいずれの作戦においても活用できる基地としての要塞が構想されていた。具体的な要塞の配置を決める際には、河川の水運で相互に連絡がとれるものを優先し、不要な要塞については経費や人員の節約のために破棄するようにも提案していた。当時、フランスの財政は赤字収支に悩まされており、要塞関連経費の削減は喫緊の課題だった。ル・テリエの求めに応じて執筆した『要塞攻囲論(Traité de l'attaque des places)』(1705)は、18世紀に支配的になった攻城技術の原型を示すものとなったが、1707年に財政政策を批判する著作を出したことで、ルイ十四世の怒りを買った。同年にパリで死去している。

思想・業績

ヴォーバンの攻城法は工兵や資材を敵の要塞の射程圏外に集めるところから始まる。攻撃位置からの前進では地形地物を利用し、部隊が絶えず掩蔽されるように注意する。敵火に晒される場合は交通壕を構築し、その中を前進する。この交通壕をある程度の距離まで構築すれば、いったん要塞の防壁に対して平行、つまり交通壕に対して直角の方向に塹壕を構築する。これは第一平行壕と呼ばれるもので、射程圏外に集積した装備や資材をここに運搬する。第一平行壕からはジグザグの形の交通壕を構築しながら敵の要塞に接近する。これは敵要塞の火砲で縦射されないための措置である。しばらく接近した後で第二平行壕を構築し、資材や部隊を運搬する。

そこからさらに同じ要領で要塞に接近し、その斜堤基部に沿って第三平行壕を構築する。ここに突撃する擲弾兵が集められるが、斜堤を駆け上がる際に敵火に晒されないため、敵の守備隊に制圧射撃を加える必要がある。そのため、第三平行壕には胸壁を構築し、擲弾兵のための掩護射撃を行えるようにする。突撃が成功すれば、速やかに砲兵を前進させて、敵の防御線に対して射撃を加えさせる。これがヴォーバンが考える基本的な陣地攻撃の要領であり、1705年に『要塞攻囲論』で説明された。しかし、ヴォーバンの軍事学における業績はあまり著作として残されておらず、その評価をめぐって研究者の間でさまざまな議論がある。