ボーフル

ボーフル

アンドレ・ボーフル(Andre Beaufre, 1902年1月25日 - 1975年2月13日)はフランスの陸軍軍人である。現代の戦略理論に関する研究で知られている。

経歴

フランスのオー=ド=セーヌ県、ヌイイシュルセーヌ出身。1914年に勃発した第一次世界大戦に従軍することはなく、1920年にサン・シール陸軍士官学校に入学した。同期生の中には後のフランス大統領に就任するシャルル・ド・ゴールがいた。1923年に第三次リーフ戦争に従軍したが、その際には重傷を負って帰国した。その後、健康状態が回復するのを待って軍務に復帰し、1925年から参謀本部で勤務した。なお、1935年にバジル・リデルハートと初めて面会しており、ボーフルはその後の戦略研究において影響を受けた。1933年にアドルフ・ヒトラーがドイツで政権をとったことを受けて、フランスはソ連との外交関係を強化しようと試み、1938年にボーフルをモスクワで駐在武官として派遣した。しかし、この任務は1年で切り上げられ、1939年に第二次世界大戦が勃発してからは第1軍司令部の作戦幕僚として勤務した。1940年にフランスがドイツに降伏してからも陸軍に留まり、1941年に国防大臣に就任したが、1942年に連合軍の着上陸作戦に密かに協力した容疑で逮捕された。

ボーフルは間もなく釈放されたが、これ以降はド・ゴールが率いる自由フランス軍に移り、チュニジアやイタリアで連合軍の作戦に協力していた。1945年にドイツは降伏し、第二次世界大戦が終結したが、1946年にフランスの植民地だった東南アジアのインドシナで新たな戦争が勃発したことから、ボーフルは1950年にインドシナ派遣軍副司令官に就任した。1954年に北大西洋条約機構(NATO)の戦術研究部の部長に就任した。1956年に第11歩兵師団の師団長に就任したが、この時にボーフルは現地のゲリラを相手に苦戦を強いられた。1958年にNATO欧州軍参謀長を経て1960年にNATO軍事代表委員会フランス代表となったが、健康問題などの理由で退役した。1962年から63年にかけてフランス戦略研究所を創設し、その理事に就任して、戦略問題に関する調査研究を推進していた。フランス戦略研究所の会議のため出張していたことから、ユーゴスラビアのベオグラードで死去した。

業績

軍事学におけるボーフルの功績は戦略という概念を理論的に拡張し、冷戦時代に適合する意味を付け加えたことにある。ボーフルの戦略の分類法の一つに直接戦略と間接戦略というものがあるが、直接戦略は実際に戦闘を挑んで敵に勝利を収めることを追求する戦略だが、間接戦略は敵に戦闘を挑む前の機動によって勝利を収めることを追求する。核時代における戦略は核兵器を戦場で使用するのではなく、核兵器の開発や配備を通じて相手の行動を抑止する点で、間接戦略として理解できるものである。さらに、ボーフルは直接戦略と間接戦略の双方を包括した概念として全体戦略という考え方も唱えており、それらの功績は核時代の戦略理論に対する理解を深めたとして評価されている。

ボーフルの主著は『戦略入門(Introduction à la stratégie )』(1963)だが、日本語の翻訳はまだ出ていないため、フランス語あるいは英語で読むことを推奨する。フランス語で読む場合は2012年に出た新版で読むことができるが、英語版は入手困難な状況にある。

  • Beaufre, A. 2012(1963). Introduction à la stratégie, Paris.
  • Beaufre, A. 1965. An Introduction to Strategy, Trans. R. H. Barry, New York.