ブランキ

ブランキ

ルイ・オーギュスト・ブランキ(Louis Auguste Blanqui, 1805年2月1日 - 1881年1月1日)はフランスの革命家である。武装した少数者の軍事行動によって共産主義革命を実現することを構想したことで知られている。

経歴

フランスのアルプ=マリティーム県出身。父は元国民公会議員であり、郡を統括する副知事を務めた。1814年にナポレオン一世がフランス皇帝から退位したことで父は職を失ったが、王政復古の際に母が相続した遺産で生計を立てた。1818年にパリの高等学校リセ・シャルルマーニュで学び、秘密結社カルボナリの革命運動に興味を持つようになり、1824年に正式に加入した。卒業後は家庭教師や速記者などの職を転々としながら、各地でデモ、暴動、蜂起に参加し、何度も逮捕されている。大学への進学も準備していたが、学生デモで逮捕されたことで資格を失った。1839年に秘密結社の四季協会の武装蜂起を指導しており、パリ市庁、警視庁を襲撃する事件を起こした。この襲撃で逮捕され、裁判で死刑と判決されたものの、無期刑に減刑されて収監された。1870年に勃発した普仏戦争の影響でフランスにおける帝政が崩壊し、国防政府が樹立された際には、パリ支庁を襲撃する事件を再び起こしている。翌1871年に地下に潜伏していたところを逮捕され、軍事法廷で終身刑が宣告された。1880年に恩赦が成立したが、パリで革命家の集会に出席した後で脳卒中で倒れた。1881年、パリで死去。

思想

ブランキは一貫して武力による革命を目指す立場をとっており、「武装蜂起教範(Instructions pour une prise d'armes)」(1866)では、市街地におけるバリケードの構築方法だけでなく、それに依拠した防御戦闘の要領を論じている。ブランキが提案するバリケードの設計図は詳細であり、掩護高3メートルの防壁を外壁と内壁と2重に構築し、6メートルの間隔を空けておくことを指示している。これは砲兵の射撃に対する掩蔽のためである。さらに防壁を守る部隊の配置や運用に関する考察も展開されており、例えば地下の水道網を坑道と見なし、地上だけでなく、地下においても防御の準備が必要であると主張した。これは現代の市街戦に通じる議論である。フリードリヒ・エンゲルスからは「過去の世代の革命家である」と批判されたが、反対にエドゥアルト・ベルンシュタインはブランキを評価している。

著作

ブランキの著作の多くは日本語の翻訳で読むことが可能になっており、「武装蜂起教範」もその例外ではない。改訂増補版が出ているため、そちらの書誌を示しておく。