エンゲルス

エンゲルス

フリードリヒ・エンゲルス(Friedrich Engels, 1820年11月28日 - 1895年8月5日)はドイツの革命家、著述家である。一般的には社会主義の政治思想家と位置づけられるが、軍事学においては革命を遂行するための方法を軍事的な観点から研究したことで知られている。

経歴

1820年、ドイツ西部のバルメンで紡績工場主の家に生まれた。家業を継ぐために学業を断念したが、学問に対して興味を持ち続けていた。1841年に兵役の義務を果たすため、ベルリンで砲兵の訓練を受けることになったが、ベルリン大学で授業を聴講するようになり、哲学への関心を深めていった。翌1842年にカール・マルクスと出会ったが、エンゲルスはイギリスのマンチェスターで一時的に事業を経営していた。しかし、その合間にも研究を続けており、1844年にマルクスと再会すると、共同で研究を進めるようになった。1845年から1847年にかけて『ドイツ・イデオロギー』を共同執筆し、独自の社会主義の思想を構築するようになった。その結果、1848年に共産主義者同盟の綱領『共産党宣言』をマルクスと連名で発表することになった。

1848年にドイツで三月革命が起こると、エンゲルスは革命を実現するため、家族の反対を押し切ってバーデン公国で起きた蜂起に司令官の副官として加わり、ラシュタット要塞の戦闘にも参加した。しかし、戦闘は敗北に終わり、エンゲルスは追跡の手を逃れて国外へ脱出し、各国を転々とした後にイギリスへ逃れた。これ以降、エンゲルスは軍事的観点から革命の問題を分析するようになり、『蜂起』(1848)では蜂起は一定の法則に支配された技術であるというその後のエンゲルスの軍事思想の原点が見出される。イギリスでは『ドイツ農民戦争』(1850)を執筆し、そこでも革命が失敗に終わる要因が軍事的に分析されている。しかし、長期化する潜伏生活で生活費は底をついたため、家族に頼み込んで家業に戻った。勤務地はマンチェスターの工場であり、財務管理の仕事が主だったが、エンゲルスは自身の生活を立て直すことができた。しかし、依然として政治運動を続けていたマルクスを支援するなど、社会主義の思想を捨てたわけではなく、軍事学の調査研究も続けていた。

エンゲルスはこの時期にクラウゼヴィッツの著作に大きな影響を受けたことが判明しており、1857年にマルクスにも一読を薦めるほど熱心に研究していた。その成果は匿名で『ポー川とライン川』(1859)としてまとめられ、『サヴォワ、ニース、ライン川』(1860)も高い評価を得た。マルクスとの共同研究も続き、1869年にドイツで組織された社会民主労働者党の指導にも積極的に関与した。1870年に勃発した普仏戦争がフランスの敗北に終わってから間もなく、プロイセンへの降伏を拒むパリ・コミューンが蜂起するという事件が起きた。結局、この蜂起は激しい市街戦の後に鎮圧された。政治運動はその後も続けられたが、1883年にマルクスが死去してからは、その遺稿の管理に取り組んだ。1895年にロンドンで死去した。

業績

エンゲルスの著作については多くの翻訳が出されている。軍事に関連がある主要な業績としては『ドイツ農民戦争』(1850)があるが、岩波書店から出版された翻訳がある。ただし、出版された時期が1950年であるため、現在では少し読みにくい訳文になっている。英語のテクストについてはオンラインで公開されているため、併せて紹介しておく。また、エンゲルスが戦闘の歴史について書いた資料として、拙稿の「変化し続けた戦闘と戦術の歴史を解説する:エンゲルス「戦闘」の翻訳と解説」も紹介しておきたい。これは19世紀の時点で書かれたものであるが、エンゲルスが近代戦の特徴をどのように洞察していたのかを知る上で参考になる。