カステックス

カステックス

ラウル・カステックス(Raoul Victor Patrice Castex, 1878年10月27日~1968年1月10日)は、フランスの海軍軍人、戦略理論家。

経歴

サントメール出身。1896年にフランス海軍士官候補生学校に入校し、1898年に最優秀の成績で卒業を果たした。その後は艦艇で経験を積み、1902年から1903年にはインドシナへの赴任も経験している。1911年から1913年にかけて海軍大学校(École de Guerre Navale)で海軍史に関する研究に取り組んでいる。

1914年に勃発した第一次世界大戦では戦艦ジャン・バールで勤務についているが、戦争を通じてカステックスは潜水艦に対する関心を深め、1920年に潜水艦の意義を認める論文を発表した。また、フランスの植民地が世界各地に分散していることが、戦略的な兵力の集中を難しくしていることを指摘するなど、フランス海軍の再建に向けた議論に積極的に参加した。例えば、インドシナ、シリア、レバノンはフランスの兵力で防衛することが難しく、特にインドシナは日本軍に対して軍事的に脆弱すぎるため、独立を承認して兵力を持たせた上で、同盟関係を結ぶように提言している。

1929年に主著『戦略理論(Théories stratégiques)』(1929~1939)を出版し始めると、その影響力はますます高まっていった。フランス海軍の教育制度の改革にも尽力しており、1936年にパリで国立高等国防学研究所(Institut des hautes études de défense nationale)の創設に携わった。1939年までその研究所で所長を務めたが、この年に海軍を退いている。1945年に第二次世界大戦が終結してからは、核兵器の問題を研究するようになり、フランスの核戦略思想に影響を及ぼした。また、1946年に植民地だったベトナムが独立を求めて宗主国のフランスと戦ったインドシナ戦争では撤退論を主張していた。ヴィルヌーヴ=ド=リヴィエールで死去。

思想

「軍事学の指導の特性をなす知的、物的行為およびこれらが利用する技術は一般に場合に応じて戦略または戦術に属するものと考えられる。残るは両者の本質的な相違を定めることにある」

「戦略は戦争あるいは戦役の全体、一言で言えば、全選挙区およびその指導方針を抱擁する総合に関連を持ち、戦術は(運動が可能な)戦場、換言すれば実施の場合においてのみ考えることができ、明確に規定された規則正しい運動と喚起する。その支配する戦闘は大きな主要性を持つ部分であるが、戦術は局地的範囲を表現するのに帰するべきである」

「よい戦略がなければ卓越した戦術も効果が小さく、戦術的な優越がなければ最良の戦略も活気あることがない」

「戦略は作戦の一般的指導、高級指揮官、その補助者である幕僚の最高の技術に他ならず、戦略は戦闘を準備し、これを最良の状況の下に誘導し、かつその最大効果を発揮させるように努める。戦略または戦闘を相互に関連させる。すなわち戦略は戦闘を支配し、その決定かつ状況に適応させる作戦方針の上にこれら戦闘を保持しようとするたこれを協調させる。戦略は全局面に通じる精神を確保し、これによって戦役を指導し、万事をこれに帰属させる。戦略はなお先述の指針となり、時期が来ればこれに自由の境地をゆだねる。戦闘の前後における戦略、兵器活動を開始してよりこれを勉るにいたる戦闘中の戦術、これあまりに左右する方法である」

「両者は緊密な関係を持ち、ある作戦は半分は戦略的で半分は政略的な部面を持つために、両方の活動の間にも同時に近似する中立地帯を形成する。その中において両方を分離することは不可能である。両方間には不断の転換が存在する。戦略は他の一端において戦術に隣接する。両者の間には何の障壁もなくこれを謳歌することが容易である。戦略、戦術の間においてもまた、その所有権、戦略から見るもまた戦術より見るのもともに議論の余地がある。中立地帯にあっては、中間階級の指揮官は無差別的加工後に戦略と戦術を行使する。このために戦略は目先のスペクトルのように政略の境界である赤外線を有し、また戦術の境界である紫外線を有する。こうしてスペクトルが感知しにくい逐次遷移によってその見えない部分と連続するように、戦略は暫時変化して政略または戦術と結合し、これらと融合し終える。政略、戦略、戦術はこうして単一の総体、完全にして結合が良好な一体を形成する。決して明確に分離した要素から構成された三つの複合体をなすものではない」

業績