カーン

カーン

ハーマン・カーン(Herman Kahn、1922年2月15日 - 1983年7月7日)はアメリカのシンクタンク研究者である。システム分析の方法を用いて、核戦略、特にエスカレーションの分析を行ったことで知られている。

経歴

アメリカのニュージャージー州ベイヨンでエイブラハム・カーン(Abraham Kahn)の家に生まれた。両親は東ヨーロッパから移住したユダヤ人で、当初はニューヨーク市のブロンクスで暮らしていた。しかし、両親が離婚したため、ロサンゼルスに転居することになった。1940年に南カリフォルニア大学に入学し、やがてカリフォルニア大学ロサンゼルス校(University of California Los Angels, UCLA)に移り、そこで物理学を専攻した。しかし、1941年に第二次世界大戦にアメリカが参戦したため、カーンは卒業を待たずに陸軍に入隊し、そこでウェストバージニア大学で軍事学を学んだ。やがてビルマ戦線に派遣され、通信部隊で勤務した。復員後は大学に戻り、カリフォルニア工科大学大学院で修士号を取得することができた。その後、友人のサミュエル・コーエン(Samuel Cohen)の紹介もあり、1948年にシンクタンクのランドに入所し、物理学者として水素爆弾の研究開発にも携わった。水爆の父とされるエドワード・テラー(Edward Teller)や、核戦略の研究で有名になるアルバート・ウォルステッターとの交流もこの時期から始まり、オペレーションズ・リサーチ、システム分析の方法論を駆使して戦略を研究するようになった。

1960年、カーンは『熱核戦争(Thermonuclear War)』を発表し、核戦略の研究で大きな論争を引き起こした。この研究では核戦争と通常戦争の違いは烈度の違いであるという視座に立っていた。つまり、核戦争と通常戦争は使用する兵器が異なるだけで、本質的に同じ方法によって分析可能であると主張されたのである。カーンの研究は核戦争をより具体的、定量的な観点から分析することを促すものであり、フォールアウトの影響が一般に考えられているよりも小さく見積もることができることや、民間防衛の有効性が指摘されるなどの成果が得られた。1961年には国家安全保障と公共政策を扱うシンクタンクであるハドソン研究所(Hudson Institute)を設立し、自らその所長に就任して研究をさらに進めた。1962年には『考えられないことを考える(Thinking about the Unthinkable)』を出版し、1965年には『エスカレーション論(On Escalation)』を出版し、独自の核戦略理論を展開した。1970年代にカーンは研究の範囲を長期予測に広げ、アメリカや日本などが将来的に国際社会でどのような地位にあるのかを予見する試みを行った。1983年にニューヨーク州で死去した。

思想

カーンは戦略の研究にエスカレーションと呼ばれる考え方をもたらした人物であり、これは現代の核戦略、対外政策を理解する上で重要な基礎になっている。そのエスカレーションの議論は、紛争で自国の意志を他国に強制するためには、軍事的優越を保持しなければならないが、その軍事的努力の程度に応じて相手も同程度の対応をとることが予想される。すると次第に両方の軍事活動が拡大していき、武力衝突、局地紛争、全面戦争と烈度が上昇する。これがエスカレーションと呼ばれる事態であり、反対に紛争の烈度が低下することをデエスカレーション(de-escalation)と呼ぶ。カーンはこのエスカレーション・デエスカレーションの過程がどのように進むのかを分析し、管理する方法が必要だと考え、起こり得る軍事的状況を大分類で7種類、小分類で44種類のシナリオに分類することを提案した。

その概要は以下の通りである。まず、最も烈度が低い状態であり、実力の行使には至っていない(1)準危機的行動、軍事的な動員や恣意的な活動が起こる(2)慣例的危機、外交関係の断絶や戦時体制への移行、通常戦争が宣言される(3)緊迫的危機、局地的、限定的な核攻撃が実施される(4)異常的危機、軍事施設や重要施設に対して威嚇的攻撃を加え、相互に報復の反撃が実施される(5)威嚇的中枢攻撃、全面戦争の宣言と無制限の攻撃が実施される(6)軍事目標への全面戦争、都市や市民に対する攻撃が実施される(7)市民に対する全面戦争である。カーンはそれぞれのシナリオをさらに細かく区分しているが、ここでは割愛する(詳細は『エスカレーション論』を参照)。このような枠組みを導入することによって、分析者は現在の状況が全面戦争までどの程度の距離にあるのかを判断することが可能になる。エスカレーションが進むたびに、より烈度の高いシナリオに移行することを敷居(threshold)をまたぐとカーンは表現し、この敷居を超える前にデエスカレーションを進め、適切に危機を管理しなければならないと主張した。

業績

カーンの研究において主著と位置付けられるのは、1960年の『熱核戦争論』と1965年の『エスカレーション論』である。いずれの著作についても翻訳が出版されていないが、『考えられないことを考える』については日本語の翻訳で読むことができる。

  • Kahn, Herman. 1960. On Thermonuclear War. Princeton: Princeton University Press.
  • Kahn, Herman. 1962. Thinking about the Unthinkable. New York: Horizon Press.(邦訳、カーン『考えられないことを考える:現代文明と核戦争の可能性』桃井真、松本要訳、ぺりかん社、1968年)
  • Kahn, Herman. 1965. On Escalation: Metaphors and Scenarios. New Brunswick: Transaction Publishers