ギベール

ギベール

ジャック・アントワーヌ・ギベール(Jaques Antoine Guibert, 1743年11月12日 - 1790年5月6日)はフランスの軍人、軍事学者である。18世紀のヨーロッパにおいて国民による軍隊の創設を主張したことで知られている。

経歴

1743年にフランス南部のモントーバン(Montauban)近郊で軍人の家庭に生まれた。父の意向で1748年、つまり5歳の年齢で中尉に任官したが、これは当時の貴族社会では軍隊の階級が金銭で取引される慣習があったためである。1753年に父に連れられてパリに転居したが、1756年に七年戦争が勃発すると、父は従軍することになった。あまりにも若かったため、ギベールの従軍は見送られていたが、2年後には13歳の若さで父の軍務を手伝い始めた。しかし、1757年のロスバッハの戦いにおいてフランス軍が敗北すると、ギベール親子はプロイセン軍の捕虜として囚われてしまった。捕虜としてプロイセンに抑留されていたものの、ギベールはプロイセン軍を視察し、フリードリヒ二世に率いられたプロイセン軍の効率性に強い印象を受けた。1759年に釈放され、帰国を果たすと引き続き旅団長の父の側近として軍務を続けたが、プロイセン軍の実情を知ったギベールはフランス軍に多くの改善すべき課題があることを認識するようになった。

1763年に七年戦争が終結し、復員が進められると、ギベールは次第にフランス陸軍の中枢部に進出しようとした。しかし、ギベールは父親の副官として勤務していたにすぎず、一人の軍人として戦功を上げた経験がなかった。そのためギベールは1768年にジェノヴァがフランスに売却したコルシカ島で抵抗運動が発生した際に、自ら部隊を率いて鎮圧に参加し、その功績で大佐に昇進を果たした。また、ギベールは著述を通じて自らの名を広めようと、『戦術概論(Essai général de tactique)』(1770)を発表した。この著作はドイツ語や英語にも翻訳されるほど多くの人々の注目を集め、陸軍中央の改革論者に接近し、実際に戦術の改革に取り組み始めるきっかけを作った。しかし、陸軍の改革を実際に推進することは容易なことではなく、保守派の激しい抵抗を受けて改革は頓挫しただけでなく、1777年にはギベール自身も陸軍中央から締め出され、地方に駐屯する部隊の幕僚に転属させられた。数多くの批判を受けたギベールはその応答を『近代戦争体系擁護論(Défense du système de guerre moderne)』(1779)で行っているが、陸軍中央への復帰の助けにはならなかった。

1785年に王立科学協会の会員に選出されたが、これは学者としての名誉であって、軍人としては依然として重用されなかった。フランス革命が起こる直前になってギベールは陸軍中央に呼び戻されたが、やはりギベールが思い描いた構想が実現することはなく、1790年にパリで死去した。

業績

軍事学の分野におけるギベールの著作は1803年にパリで5巻本の著作集として刊行されている。上述した『戦術概論』と『近代戦争体系擁護論』も収録されている。

  • Guibert, J. A. H. C. de. (1803). Oeuvres militaires de Guibert, publiées par sa veuve sur les manuscrits et d'après les corrections de l'auteur. 5 Volumes. Paris: Chez Magimel.(InternetArchiveでのオンライン版