ドゥーエ

ドゥーエ

ジュリオ・ドゥーエ(Giulio Douhet、1869年5月30日 - 1930年2月15日)はイタリアの陸軍軍人であり、空軍の意義を説いた『制空』の著者としても知られている。

経歴

カンパニア州のカゼルタで生まれる。モデナ陸軍士官学校で士官候補生としての教育を受け、1882年に砲兵科の士官になる。砲兵学校とトリノ工科大学で工学などを修め、1900年には参謀本部に配属されてからは航空機に対する認識を深める。1911年、イタリアがオスマンと戦争状態に入ると、1912年にドゥーエは新設されたばかりの第一飛行大隊の指揮をとり、リビアで爆撃の任務を遂行する。この時期の経験から、ドゥーエは戦後に爆撃機の研究開発に参加することになる。

1914年、第一次世界大戦が勃発すると、ドゥーエはミラノ師団の参謀長に任ぜられたが、航空部隊の運用方針をめぐって参謀本部の幹部と意見対立を起こしてしまう。1916年、ドゥーエは軍法会議にかけられ、政府批判を理由として一年の禁固刑を言い渡され、予備役に編入された。しかし、戦後になってから航空の意義を主張したドゥーエの主張が正しかったことが認められ、1918年に現役に復帰することが認められた。現役復帰後のドゥーエは航空局の技術部長に就任したが、任務遂行に必要な権限が与えられていないことから不満を募らせて、結局辞職することを決めた。

1921年に軍法会議の判決が破棄され、無罪が宣告されたことを受けて将官に昇進したが、間もなく陸軍を退いた。ファシスト党の政権下で航空委員に就任したが、数ヶ月で職を辞し、それ以降は著述に専念するようになる。1930年2月15日にローマで死去した。

思想

戦争において航空機が果たし得る役割にいち早く気がつき、独立空軍を創設することを提唱したことで知られている。ドゥーエの思想で特徴といえるのは、政経中枢に対する戦略爆撃(strategic bombing)によって短期に戦争を集結に導くというものである。この戦略爆撃を確実に実行するために重要になるのが制空権(command of the air)であり、これを獲得するためには敵の航空戦力を徹底的に撃滅し、航空機を製造する工場も含めて破壊することが戦略的に重要になると考えた。またドゥーエは航空戦力を集中運用するため、陸軍や海軍がばらばらに航空機を運用することは不合理だと主張し、独立空軍の創設を主張した。ドゥーエは激しく論敵を攻撃したことから、多くの反発を受けることになり、直ちにその構想が実現を見ることはなかった。しかし、その方向性において軍事的な妥当性を持っていたため、時代が進むにつれて理解されるようになり、特にミッチェルへの影響は大きなものがあった。現在でも空軍の戦略思想の原点として尊重されている。ただし、戦略爆撃の有効性や制空権の概念に関しては異論も出されている。

業績

ドゥーエの著作として重要なのは『制空』(1921年)であり、これに関してはすでに日本語で翻訳が出されている。ドゥーエの研究を進める場合、以下の翻訳を推奨する。

  • ドゥーエ「制空」瀬井勝公訳『戦略論体系6 ドゥーエ』芙蓉書房出版、2002年