モルトケ

モルトケ

ヘルムート・フォン・モルトケ(Helmuth Karl Bernhard Graf von Moltke、1800年10月26日 - 1891年4月24日)はプロイセンの陸軍軍人である。戦争指導を通じてドイツ統一に貢献しただけでなく、19世紀に軍隊の編成、装備、運用が大きく変化する中、戦略と戦術の研究で成果を上げた。

経歴

ドイツ連邦メクレンブルク・シュヴェーリン公国の都市パルヒムで軍人の家に生まれた。デンマーク軍に所属していた父に従い、また苦しい家計を助けるために、11歳の時にコペンハーゲンのデンマーク陸軍士官学校に入校した。少尉に任官した後で伯父の助言を受けてプロイセン陸軍に移籍することを決め、クラウゼヴィッツが学校長を務めていた陸軍大学校で教育を受けた。卒業後に部隊に配属されたが、給与がわずかで生活は苦しく、短編小説『二人の友人』(1828年)を執筆し、著述業も行っていた。測量部への配属を経て参謀本部付になるが、1835年に長期休暇を取得し、トルコを旅行した。

モルトケはトルコの旅行中に陸軍の顧問に抜擢され、第二次シリア戦争に従軍したが、トルコ軍は敗北を喫した。この時期に得た体験は後に『トルコ書簡』(1841年)として出版された。1841年からはベルリンとハンブルクを結ぶ鉄道の理事になり、鉄道に関する調査を進めた他、ベルタ・マリーと結婚した。鉄道の理事の仕事は1844年まで続き、同じ時期に『露土戦争』(1845年)の執筆にも取り組んだ。1845年にローマに在住していたハインリヒ親王の侍従武官として勤務した。1846年に第八軍団の参謀、1848年に参謀本部課長、第八軍団の参謀長を歴任した。モルトケは参謀としての職務を通じて能力が認められるようになり、1855年にはフリードリヒ・ヴィルヘルム親王の侍従武官にも任命された。

1857年、モルトケは参謀総長事務取扱を命じられ、翌1858年には参謀総長に就いた。参謀総長として参謀本部の改革に積極的に取り組み、1863年に勃発した対デンマーク戦争で作戦の指導に当たった。1866年の普墺戦争、そして1870年の普仏戦争においても、モルトケは巧みな作戦指導でプロイセン軍を勝利に導き、モルトケの名前は世界的に知られるようになった。普仏戦争が勃発する前に作成された『大部隊指揮官のための教令』(1869年)はモルトケの戦略、戦術の研究で最も重要な成果である。ドイツ帝国の成立後も、モルトケは参謀総長の職務を遂行し、軍制の改革や教育の充実で成果を残したが、健康上の理由で1888年にその職を辞した。1891年、ベルリンで死去している。

思想

軍事学におけるモルトケの功績は、クラウゼヴィッツの研究で得られた知見をさらに発展させ、実際の作戦行動に応用する方法を示したことだといわれている。ハーバート・ロジンスキー(Herbert Rosinski)はモルトケを評して、クラウゼヴィッツの理論を実践の領域に適用した人物だと述べた。また、19世紀に有力だったジョミニの学説の影響からドイツ軍を解放し、新しい作戦指導を可能にしたという評価もある。モルトケの思想の特徴の一つは、クラウゼヴィッツが唱えた戦争の殲滅の原理を基礎に置き、決戦によって敵を捕捉撃滅することの戦略的な重要性を主張したことである。

モルトケは要塞を連ねて防衛線を保持することよりも、野戦軍の運用を工夫し、分進合撃などの機動で敵を圧倒することが重要であると考えた(論文紹介 参謀総長モルトケの戦争術と作戦術の原点)。また、ジョミニが唱えていたような戦略の原則を軍事的な意思決定に適用することの限界を指摘し、より実践的な戦略思想の在り方を示した(学説紹介 戦略は臨機応変の体系である―モルトケの軍事思想を中心に―)。モルトケは各級指揮官が主体的、主動的に戦闘を指揮することができるように、訓令戦術を導入したことでも評価されており、これは刻々と変化する戦闘の状況に組織が柔軟に対応する上で大きな効果を発揮する(モルトケが語る訓令戦術(Auftragstaktik)のエッセンス)。

業績

モルトケの主要な著作とされる『大部隊指揮官のための教令』はドイツ語で執筆されているが、英語、日本語で読むことが可能である。『戦略論体系』にはそれ以外にも多くの著述が翻訳されている。